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日本人とリフレクション

文部科学教育通信NO.367 2015.7.13掲載

2011年4月にオランダに教育視察に行き、ある学校を訪問した際に、先生がPCに向かい、子どものリフレクションの記録を取っている場面に遭遇しました。先生が、4歳の子どもに問いかけます。「この3か月で最も誇りに思うワークは何ですか」「それはなぜですか」「どこに苦労しましたか」「次にやるとしたら、どんな工夫をしますか」先生も生徒も、とても自然体で、特に難しいことに挑戦しているという様子ではありません。この4歳のリフレクションの様子は、今でも私の頭から離れることがありません。

4歳の子どもがリフレクションを行っている様子を見て、私は衝撃を受けました。

理由は2つです。1つは、4歳の子どもでも、リフレクションが出来る事を目撃し、私自身が子どもに対する間違った期待値を設定していたことに気づかされたことです。4歳の子どもに、リフレクションを行うことなど無理だと思っていた自分に気づきました。もう1つは、OECDのキーコンピテンシーの中でも核となる力と定義されているリフレクションを子どもたちに届けるために自分自身が行動していないという現実を突き付けられたことです。当時、私は、教員養成を行う大学院に属しておりましたので、未来の教師たちに、リフレクションの大切さを教える立場にいたのです。

この日から、私はリフレクションの啓発者として活動を開始しました。ところが、日本人とリフレクションの概念が、かみ合わないという事実に遭遇することになります。その体験を御話したいと思います。

リフレクションの定義

ここで、リフレクションについてOECDがどのように定義をしているかをご紹介しておきます。

【リフレクション(内省力):キーコンピテンシーの核心】

-キーコンピテンシーの根底にあるのは、自らを省みる思考と行動である。

-状況に直面した時に慣習的なやり方や方法を規定どおりに適用する能力だけでなく、 変化に応じて、経験から学び、批判的なスタンスで考え動く能力である。

参考資料:ドニミク・S・ライチェン 立田慶裕監訳(2006) 『キー・コンピテンシー 国際標準の学力をめざして』 明石書店

抽象的概念化が伝わらない

リフレクションでは、過去の行動や出来事を振り返り、そこからの気づきや学びを、抽象的概念化することを指します。抽象的概念化とは、成功と失敗の法則を見出すことを意味します。例えば、プレゼンテーションが成功した時、なぜ成功したのかという振り返りであれば、内容に精通していた、準備に時間をかけた、聞き手のことを良く理解していたなど、さまざまな成功要因を見出すことができるでしょう。このような成功要因を明らかにし、実践することで、次のプレゼンテーションも、成功に導くことができます。同じように準備をしても、成功しなかった時、何が間違っていたのか、何を見落としていたのかと失敗の原因を探究することも可能です。事前のヒヤリングを省略したことで、聞き手のことを十分理解できていないことに気付かなかったなど、課題から次に活用できる成功の法則が見えてきます。リフレクションを更に深め、聞き手を理解するために必要な10の問いなどを用意するのも良い方法です。このように、リフレクションを習慣化すると、すべてのアクションから学びを得ることができます。実際、セルフラーナーの人たちは、リフレクションと言う言葉を知らなくても、このような行動様式を自分のモノにしています。

責任問題

ところが、このリフレクションが意外に実践しにくい環境があることに気づきました。官僚的な大企業の人たちと、ある問題について会議を行った際の出来事です。私は、オープンにリフレクションを始めたのですが、何か議論がかみ合いません。5分ほどたち気づいたのは、みんな、自分の責任ではないということを説明するために、その会議に集まっているという事実でした。リフレクションから学ぶことよりも、誰の責任になるのかがより重要な会議だったのです。このような環境下では、だれもリフレクションを行うことができません。リフレクションは、自分を追い込む危険な行動なのです。この出来事を通して、改めて、学びは安全安心な場でしか起こらないということに気づかされました。それ以来、私は、リフレクションを行う前に、環境を整えるようにしています。そして、皆さんにも、安全な環境であることを確認してから、リフレクションを始めることを奨励しています。リフレクションのテーマは、過去の出来事なのですが、その目的は変えられない過去について責任を追及するためではなく、その経験からの学びを未来に活用するためであるということを誰もが認識することが大切です。リフレクションを広める活動を通して、少し大げさかもしれませんが、日本の文化がリフレクションの阻害要因になっていると感じています。日本では、切腹にも通じる責任の取り方が今日でも重要視されますし、恥の文化が、人を失敗の振り返りから遠ざけてしまいます。そこで私の提案は、リフレクションを科学的手法と捉え直し、進化のための大切なプロセスと捉え前向きに取り組むことです。

他人のリフレクション

ある企業で、リフレクションに熱心に取り組む人たちが、その後も行動を変えることができないのはなぜか疑問に思い、リフレクションを観察したところ課題が明らかになりました。リフレクションには、3つのレベルがあります。一つ目は出来事のリフレクション、二つ目は他者や環境のリフレクション、三つ目は自己のリフレクションです。熱心にリフレクションに取り組んでも学習に繋がらないのは、そのリフレクションが、出来事、他者や環境に焦点を当てているからです。出来事や他者のリフレクションも必要かもしれませんが、最終的に、リフレクションで学びを得るためには自己の振り返りを行う必要があります。それ以来、リフレクションには、3つのレベルという説明を加えるようにしています。

主体性とリフレクション

こうして、多くの大人にリフレクションの啓発を行う中で、なぜ、オランダの大人にとってリフレクションが当たり前なのに対して、我々日本人にとってリフレクションが、このようにむずかしいものなのかと不思議に思うようになりました。そんな中で、リーダーシップ教育を行っていた際に、リフレクションの前提には主体性があることに気づきました。

主体的に行動する個人は、管理される個人とは異なり、自らの意思で目的や目標を設定し、その実現のために行動します。自らの意思で行動する人が目的を達成するために、リフレクションは不可欠な道具です。誰かに管理され、軌道修正してもらえないとしたら、自ら行動し、振り返り、自分が正しい方向に向かっているのかを確認しなければなりません。ところが、管理される個人には、評価という物差しが存在し、自らリフレクションを行わなくても、管理者が軌道修正を指示してくれます。リフレクションを行う必要がないのです。これは、かなり衝撃的な発見でした。21世紀を幸せに生きる力の要となるリフレクションが出来る人を育てるためには、まず、主体性を育む必要があります。ところが、現実社会に目を向けると、評価が幸せを決めるという声が聞こえてきます。しかし、そんなことに負けてはいられません。これからも、リフレクション啓発者として、小さなことでも良いので、自分で決めて行動し、その行動を振り返るという習慣を広め続けて行きたいと思います。

 

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