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リベラル・アーツは実学なのか?

文部科学教育通信NO.366 2015.6.22掲載

前回の記事では、米国東海岸のアイビーリーグ校、ブラウン大学の卒業式の模様をお伝えしました。

今回も引き続きブラウン大学を例に、アメリカにおける伝統的なリベラル・アーツ教育観と日本への応用の可能性について考察します。

 

ブラウン大学パクストン学長「選択をする経験こそ学部教育の意義」

卒業式のスピーチで、学長が「問題を見つけるだけでは十分ではない」(”Problem-spotting is not enough”)と新たに社会へ出る学生たちに檄を飛ばしたことは、前回の記事で述べた通りです。世界の困難な課題へ挑戦するよう学生たちに決意を求める彼女のスピーチからは、現代社会への単なる怒りや嘆きではなく、ブラウン大学がこうした最も困難な時代を切り開くだけの人材を育ててきたという自負がにじみ出ていました。

では、学部における大学教育の意義とは何なのでしょうか?それは、”Choice”(選択)ができるようになることだと、学長は語ります。知識や技能よりも、複雑な問題に直面したときに「大胆な選択をするだけの自信」と「正しい選択のときを見極める知恵」を身につけていることが、卒業後の最高の財産になるというのです。

単なる学科ごとの知識教育やスキル育成にとどまらず、自由に挑戦し、失敗し、学ぶための環境を提供していることが、ブラウン大学が学生に提供する究極的な価値だと言っているように感じました。

 

米国式リベラル・アーツ教育とブラウン大学のオープン・カリキュラム

では、この挑戦できる学生を育てる「環境」とはどのような場なのでしょうか?そして、大学側はどのような努力をしてそうした場を形成しているのでしょうか?話をより具体的に理解するために、ブラウン大学のユニークな教育システムである、「オープン・カリキュラム」についてもご紹介します。

アメリカの大学におけるリベラル・アーツとは、特定の専攻分野に縛られずに幅広い教科を学ばせながら 、批判的に物事を考え、表現する力を高めていく学部教育のあり方のことを指します。入学以前から専攻を決めねばならないイギリスや日本の大学とは対照的に、アメリカの大学の学生が専攻を決めるのは入学から1、2年ほど後です。この時期に、学生は自分の興味の赴くまま、文系理系の区別なくクラスを履修し、最終的な専攻を選びます。ちなみに、リベラル・アーツというと日本の大学で実施されている教養課程を思い起こす方もいらっしゃると思いますが、これをいわゆる「一般教養」のための知識教育だと考えるのは誤りです。ここで重視されるのは、得られる知識ではなく、異なる学問に共通する批判的な考え方や自分の考えを伝えるコミュニケーション能力の涵養だからです。

このように、元来自由度の高いリベラル・アーツの中にあって、ブラウン大学は「オープン・カリキュラム」という学生の選択の幅がさらに広いシステムを採用しています。

共通の必修がなく、最終的に専攻ごとに指定される最小限の単位を履修すれば卒業できるため、自分の興味に応じて様々なクラスで学ぶことができます。さらには、教授や大学側と交渉すれば、自分の興味のあるクラスや、専攻さえも自由に作ることが許されているのです。「自らの教育の設計者たれ」(”Be architect of your education”)という教育方針を掲げるだけに、学生が主体的に求めさえすれば、どこまででも大学として応えようとする制度です。

 

自由な環境が生み出す一連のプロセス

これだけ自由で恵まれた環境にいれば、さぞかしのびのびとした学生生活を送っているのではないかと思うかもしれません。実際に2010年には、ブラウン大学は全米一学生の幸福度が高い大学にも選ばれています。

今年卒業した学生に話を聞いてみると、意外な言葉が返ってきました。

「自由で何でもできる分、最大限機会を活用できているかというプレッシャーは凄まじい。周りには自分のパッション(情熱)を見つけて成果を上げている人も多く、試行錯誤の毎日だ。」というのです。

幅広く可能性を模索し、自らの進むべき方向を考えて決断する。そして、自分の決断を思考錯誤しながら実行し、結果に対して責任をもつ。この探索から結果までの一連のプロセスを、先輩や教授、メンターのサポートのもとで経験していくのだと学生は語りました。与えられた自由そのものではなく、自由の結果として経験する一連のプロセスにこそ、この教育の醍醐味があるのです。

 

ここまで読んできた皆さんには、「人生そのものだって一種のオープン・カリキュラムなのだ」(”Life is an open curriculum”)という学長の言葉の意味をご理解頂けることでしょう。「模索→思考→決断→実行→結果→学習」というサイクルは、大学教育を超えた人生一般に通じる経験だからです。

 

「実学」は21世紀には実用的ではない!?

昨今、高等教育の現場では「実用的な高等教育」の必要性が度々取り上げられています。日本経済の停滞が続くなかで、就職に結びつきやすい、社会の需要に直接応える学生を輩出することが大学のプレッシャーになっています。

こうした風潮が強まるにつれ、専門分野や職業訓練に特化しないリベラル・アーツを実用からかけ離れた無駄な教育だとする批判も一部からは出てきているようです。確かに、国策として理系教育に力を入れ、ビジネスの即戦力を育てることを目的とした日本の教育者から見れば、リベラル・アーツ教育は必ずしも工学やコンピューターサイエンス、商学やビジネスの専門教育のように「実学」的ではないかもしれません。

しかし、教育者として私たちが忘れてはならないのは、専門知識も実務経験も、その時々の「一時的な社会の要請」にすぎないということです。世界レベルで見たビジネスや技術革新が目まぐるしく進歩しているように、知識や経験は常に陳腐化のリスクを孕んでいます。こうしたリスクを無視して、「今必要だからこれだけ勉強しておけ」とその時期の需要にのみ振り回されるのは危険な考え方です。また、トップレベルの学生への教育という観点からは、現状に適応するだけの卒業生を輩出しても、次の時代を定義していくイノベーティブな人材を育てられるかには疑問が残ります。

専門の技能や知識が安定したキャリアを保証するというのは20世紀的な考え方です。コンピューターが人の仕事を代替するようになり、世界規模で知識が日々アップデートされる21世紀に求められるのは、大学を離れても主体的に考え学び続ける能力ではないでしょうか。どんな詰め込みの「実学」も数年で使い物にならなくなってしまう現代において、「今必要な人材」を作れば作るほど、イノベーションを起こして未来を作る人材は不足するというジレンマに、日本の教育は陥ろうとしています。

 

21世紀の大学教育のあるべき姿

今回のブラウン大学の例は、大学教育一般の理想とするには過激すぎるという声もあるでしょう。日本でもアメリカでも現実問題として、中堅大学をはじめとする多くの大学が存続のために、卒業生の就職実績を重視し、職業訓練や実務研修に近いプログラムを実施していることも事実です。一方、アメリカのトップ大学に通う優秀な学生は、大学での知識教育はもとよりインターンシップなどを通した実務経験も高める努力をしています。学生の卒業直後の進路を考えれば、専門知識や職業経験を大学が重視することは間違いではありません。

しかし、未来を担う人材を育てるべき大学が、こうしたその場しのぎの技能や知識教育だけに特化するのは本末転倒です。

アメリカ式のリベラル・アーツを日本に移植するのは無理があるかもしれません。ですが、その根底にある、様々な分野の知恵に触れるなかで、自分で考え決断する「生き方の習慣」を身につけさせる教育姿勢から日本の大学が学べることは多いのではないでしょうか。卒業後の進路を支える知識・経験と一生を導く習慣を両立させることが、大学に求められているのです。

 

 

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