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大人と若者の責任

文部科学教育通信No.365 2015.6.8掲載

アメリカ東海岸、ロードアイランド州に位置するブラウン大学は、世界屈指の大学として知られています。日本とのつながりも古く、慶應義塾大学を創設した福澤諭吉が蘭学塾であった慶應義塾を近代大学に改めるためにモデルとしたことでも有名です。この度、ブラウン大学で行われた2015年度の卒業式に参加する機会を得ました。今回はこの様子から見えてきた大学教育における大人と若者の関係について紹介します。

学長からのメッセージ 大人が大学生に求めるもの

世界中から数万人もの家族や友人、卒業生が集まり、3日間にわたり行われたお祭り騒ぎとは裏腹に、学長を始めとする見送る側の大人たちからのメッセージは、今日の世界への怒りと嘆きに満ちていました。アメリカの自由と民主主義の根本を揺らがせるファーガソンでの黒人による暴動、世界各地での過激な排外主義の高まり、グローバル化の結果広がる富の格差、人類の未来に暗雲を立ち込めさせる地球温暖化など、数え切れない深刻な問題を次々に指摘する様子は、めでたい門出の日に悪い話を避けようとする日本人には場違いに映ることでしょう。

それどころか、壇上で祝辞を述べる学長や教授たちは口を揃えて、その解決が卒業生たちに委ねられていることを強調します。自分たち大人世代が解決に挑みながらも失敗したことに触れながら、今度は参列する卒業生に世界で最も困難な課題の解決に人生を捧げる覚悟を求めていました。とりわけ、「問題を見つけるだけでは不十分だ」(”Problem-spotting is not enough”)というパクストン学長の言葉には、学生時代のように問題を見つけたり分析したりしてエッセイを書いているだけでは世界を変えることはできない、という強いメッセージが込められているように感じました。

日本語では「卒業」式と訳されるCommencement ですが、原語でのこのイベントの意味は「始まり」です。この式典は、世界有数のリベラルアーツを修了した学生を祝うだけではなく、その恵まれた教育に見合うだけの世界への貢献を求められる次のステップの「始まり」を告げるものでした。

卒業生のスピーチ「わからないこと」を許容できるか

卒業式では二人の学生が生徒を代表してスピーチをしました。 “I don’t know”と題された最初の答辞では、一年生の時に脳科学の教授が生徒の質問に「わからない」(”I don’t know”)と答える姿に衝撃を受けたエピソードを紹介しました。社会の大人一般はもちろんのこと、各分野の権威にとっても、世界は未だ解明されていない謎や解決方法がわからない問題にあふれていることを発見した、と彼女は言います。大学に入ったばかりの彼女には絶望的で、悪いことに思えた「わからない」ことは、実は学術的発見や問題解決の始まりであったと気づいたのです。

そして数年後、移民に関わる法律事務所でインターンをしていた彼女は、重篤な病を抱えて満足な治療の望めないアフリカの出身国に強制送還されそうになっているクライアントに出会います。 上司でさえも「どうすればよいかわからない」と匙を投げた案件を「今はわからないけど、なんとか方法を見出します」と説得して引き受け、世界中に散らばるブラウン大学のネットワークを駆使して解決したそうです。「わからない」という不安な状況を受け入れ、上司を説得してまで自分の解決すべきだと信じる問題に取り組む姿は、まさしくアントレプレナーそのものでした。

4年間の大学生活を通して着実に成長する彼女に感動すると同時に、その道のりで多くの大人たちが手を差し伸べ、「わからない」という彼女の声にも真摯に耳を傾けてきた事実は私にとっては感慨深いものでした。「わからないけど、絶対にやるべきだ」、ほとんどの大人なら若者のナイーブな理想主義だと相手にもしないであろう意見を尊重し、才能ある学生への協力を惜しまない彼女の上司やブラウン大学のコミュニティーに強い印象を受けました。

これは、若者だから何でもかんでもやらせてみようという放任主義とも違っています。問題の重要さと本人の問題解決にかける情熱を見た上で、若いからこそ生まれるかもしれない可能性を信じる。「自分にはできないかもしれないけど任せてみよう」と寛容な姿勢で、大人たちが自分たちにできる協力をしてきたからこそ、彼女は自信を持って困難な問題に挑戦できたのではないでしょうか?「若者が未来を担わなければならない」などと言いながら、「近頃の若者は」といって実際のエンパワーメントをためらいがちな私たち大人にも学ぶことがあるかもしれません。

卒業生のスピーチ コミットメントのあり方

二人目の学生は、高校時代から憧れだったブラウン大学へ入学した時から、自分の「母校愛」(”School Spirit”)が変化していったかをユーモアを交えて語っていました。入学当初は買ってもらった大学の名前入りのパーカーを着て「ブラウンらしさ」を感じていた彼ですが、高校生向けのキャンパスツアーガイドをしている中で、ブラウン生にとっての本当の愛校心は「大学をよりよくしてしまうくらいブラウンが大好きになること」(”love Brown enough to make it better”)であることに気付きます。全米で最もクラス選択が自由な大学として知られ、「自らの教育の設計者たれ」(”Be architect of your education”)をモットーとする今日のブラウン大学の学部教育も、もとは一人の学生が古典的な大学の教育方針に異議を唱えたのが始まりでした。そうした自由と責任を重視する伝統にも触れながら、この生徒は何にもましてコミットメントが大切だと結論付けます。恵まれた環境にいるからこそ、その場をより良く変える責任があり、そのためには不安を恐れず労力を惜しまない姿勢が真のブラウン精神だというのです。

一人目の学生の話が大学時代の実体験に裏付けられていたように、彼もまた自由と責任で4年間のカリキュラムを過ごしてきた自信が滲んでいます。18歳にして自分の学部教育をデザインできるという圧倒的な自由を与えられながら、同時に自分の選択の結果に責任を持つという、自由、決断、責任のサイクルを体験してきたからこその言葉だと感じました。

社会的なインパクトが注目される今、「日本が好きだ」「社会変革に興味がある」といったことをしばしば耳にします。大学教育でもこうした「思い」の重視が叫ばれますが、「好き」や「興味」を前提に、行動の責任が伴っているのか、そもそもそのための決断をしているのか、コミットメントが割かれているのか問うてみることは彼らの可能性を次のレベルへと引き上げることにつながるのではないでしょうか。

対等な責任に基づくエンパワーメント

今回の記事では米国ブラウン大学の卒業式を例に、「大人」と「若者」の関係について紹介してきました。卒業式という門出を前に、 大人たちは自らの世代が解決できていない困難な課題に言及し、世界で最も恵まれた教育を享けた卒業生たちにも解決策を求めます。一方で、大人たちも若者たちの野心的な試みに手を差し伸べることで責任を果たします。解決策が「わからない」のは大人も若者も同じだという共通認識のもと、大人も若者もそれぞれが責任を負うことを確認しています。

この日までの4年間、大学生は困難な課題や「わからない」ことへの不安に負けずに「なすべき」ことを実現する練習を重ねます。数多くの可能性の中から自分の領域を選択し、そこへコミットしていくことを次第に求められる決断と自己責任の世界です。大人が若者の可能性を信じてエンパワーする責任をもつ一方、若者もその分の貢献を求められる対等な責任関係は、大学入学当初から始まっているのです。

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