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人の幸福と教育の関係

2021.06.14文部科学教育通信掲載

教育の究極の目的は、ウェルビーイング(幸福)であるという考えが広がりを見せています。

その観点から、教育について考えてみたいと思います。

なぜ教育が変わらなければならないのか

教育改革が進む中、未来教育会議という団体を立ち上げ活動しています。教育のあるべき姿を正しく見極めるためには、未来の社会、未来の人、未来の教育の3つの視点で語れることが大事であることをOECDのレポートより学び、ラーニングジャーニーと対話を繰り返しています。

OECDのレポートでは、「なぜ、教育が変わらなければならないのか」がとても明確です。

OECDから学んだこと

これまでの教育では、子どもたちは、人生の準備をすることができない。変化、複雑、相互依存が進む社会の中で、子どもたちが幸せに生きるために、問題を解決する力が必要になる。そのためには、学力だけに焦点を当てるのではなく、自ら仮説を立てて検証し、問題を解決していく力が必要になる。その過程では、一人で問題を解くのではなく、多様な利害関係者や専門家と協働して問題を解決する力が必要になる。

テクノロジーの進化は、人間の仕事の再定義を促進し、ホワイトカラーの定型的な業務は、ほぼすべて機械に代替される中、人間には、テクノロジーを活かし、創造する力が必要になる。テクノロジーの進化は、人々をエンパワーし、企業への帰属という職業観を前提としたジョブ・シーカーという生き方から、ジョブ・メーカーという生き方へのシフトが進む。その結果、学校を卒業し、就職して定年まで働き続けるという3部構成の人生ではなく、学び直しが人生の中で何度か訪れることが人生の当たり前になる。従来の行き方を前提とするのであれば、誰もが、不安定(変化)な人生を生きることになる。

子どもたちは、また、グローバル化した社会に生き、持続可能な経済成長という新たな命題に立ち向かわなければならない。

OECDは、このような前提にたち、ウェルビーイングのための教育指針として、学びの羅針盤2030を発表しています。子どもたちには、受け身で学ぶ生徒ではなく、より良い未来を創る主体であることが期待されています。

全ての答えは教室にある

ウェルビーイングにつながる教育の答えは、教室にあるのではないかという仮説を持ちました。多くの教室には、吹きこぼれと、落ちこぼれと、中間層が存在します。

落ちこぼれる子どもたち

子どもの貧困問題に取り組むNPO法人ラーニングフォーオールの活動を通して、落ちこぼれている子どもたちの現実について知りました。子どもの貧困は、多くの場合、金銭的問題だけではなく、発達の遅れという課題も伴います。子どもたちの多くは、小学校入学時にすでに発達の遅れを抱えており、最初は生活面に現れます。次に、発達の遅れは、勉強面に現れます。義務教育の恩恵を受け、子どもたちは、学校に通うことができますが、残念なことに、教室では、彼らに必要な学びの機会を得ることができません。一斉授業を行なうことを使命とする教員は、中間層に当てた授業を行うことしかできないからです。多忙な先生が、放課後に、彼らに、授業以外の指導を行うことも難しいため、彼らの遅れは、日々蓄積してきます。

幸福につながらない教室

学びの最近接領域とは程遠い授業内容に参加し、理解が進まない授業に参加することで、彼らは、2つの被害を被っています。一つは、自分に必要な学びを得ることができず、義務教育を終えても、社会人になるために必要な学力を身につけることができないという被害。もう一つは、9年間学校に通い続けても学力が身につかないことにより、自分は社会の落ちこぼれであると思い込み、中学生の段階で人生を諦めてしまうという被害です。その結果、自立できず、生活保護を必要とする社会人を輩出するのですから、社会も被害を被っています。環境さえ異なれば、社会に貢献できる大人になれたはずの子どもたちを、なぜ、日本の教育は救えないのでしょうか。

吹きこぼれる子どもたち

どうすれば、この問題を解決できるのかを考える中で、フィンランドの教育について専門家の話を伺い、ハッとさせられることがありました。吹きこぼれの子どもたちの話をしていた時です。フィンランドでは、すべての子どもたちは違うということを前提に、教育が進められています。教室には、ものすごく理解の早い子もいれば、遅い子もいます。先生たちは、常に、子どもたちの様子を観察し、必要に合わせて、小さい島を作り、異なる学習内容に子どもたちが取り組めるようにします。そういうお話の中で、フィンランドでは、理解の早い子も、アクティブラーナーとして、自分に必要な学びを追求することが期待されていることを教わりました。理解の早い子は、自分にとって意味のない授業を受け身でやり過ごすのではなく、自分にとって必要な学びを求めることが、自律的に学ぶアクティブラーナーに求められる姿勢であるという説明を受けました。日本では、吹きこぼれの子どもたちの多くは、昼間は、学校で受動的ラーナーとして授業に参加し、夜に塾でアクティブラーナーになっているのかもしれません。

経済(社会)と教育は双子

高度経済成長の時代に、均一的な労働者を育成する学校教育の使命が終わり、多様で、複雑化する社会に合わせて、学校教育には、新たな使命が求められるようになりました。また、いじめや不登校、学級崩壊、子どもの貧困、家庭の教育力の低下、塾等の教育サービスの発展等 様々な変化があり、その全てが、学校現場での教員の仕事の難易度を上げていきました。そこに、21世紀型教育の要請が加わり、教員への期待は、高まる一方です。学校は、先生にとっても、幸せを実感し難い職場になっているのではないかと思います。

教育システムの時代との乖離は、企業にも負の影響を及ぼします。企業には、認知能力が高く、非認知能力が低い人材が多く、DXをはじめとする創造的な活動を活性化させる人材が圧倒的に不足しています。

一方、企業側も、ジョブ型とメンバーシップ型、キャリアビジョン形成等、変化の時代に対応する雇用の在り方を見直しているように見えて、根本から変えて行くという気概は見られません。中途半端に揺れる企業都合での雇用の在り方の見直しでは、若者に夢も希望も与えることができません。

人を幸せにする教育と社会

子どもたちがアクティブラーナーになり、先生たちも、安心して子どもたちの最近接領域の学びをデザインできる教室を実現することができ、子どもたちが未来に夢を持つことができる社会を実現できれば、幸せな人生に寄与する教育が実現できるのではないかと思います。

企業も、教育も、お互いを批判するのではなく、自らの在り方をリフレクションし、共に変わっていくことが本当に必要だと思います。そこで、私たち大人が、自己都合にならず、簡単な道を選ばないために必要なことは、子どもたちが生きる未来の社会を想像し、子どもたちに共感し、子どもたちが少しでも困らないように、不安に押しつぶされないように、そして、幸せな人生を実現できるように、何が出来るのかを考えることが大事ではないかと思います。そのためには、「何かを変えると、自分が何かを失うかもしれない」という恐怖心から思考停止になるのではなく、ゼロベースで、あるべき姿を再構築する勇気が必要です。

 

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