真鶴町「美の基準」
2025年3月24日文部教育科学通信掲載
明治大学理工学部の庄ゆたか教授にお誘いいただき、彼女が指導するシンガポール国立大学の建築学科の学生たちと一緒に、真鶴町のフィールドスタディに同行させていただきました。スタディツアーには、真鶴町「美の基準」を作成された五十嵐敬喜先生もお越しになり、たくさんの学びを得ることができました。
真鶴町は、神奈川県の南西部に位置し、南北に約7km、東西に約1km、人口7、061人の小さな港町です。箱根火山の南東側外輪山麓と、相模湾に突き出した小半島から構成されています。古くから上質の石材とされる本小松石の産地として知られており、江戸城の石垣にも真鶴町の石材が使われています。
「美の基準」
真鶴町は、その美しい自然環境と伝統的な港町の風景を守るため、「真鶴町まちづくり条例」を制定し、その中で「美の基準」を定めています。この「美の基準」は、町の景観や文化を保全し、持続可能なまちづくりを推進するための指針となっています。
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、日本各地でリゾート開発が盛んに行われ、真鶴町もその影響を受けました。特にリゾートマンションの建設が相次ぎ、町の景観や生活環境への影響が懸念されました。この状況を受け、町民や行政は町の美しさと伝統を守るための具体的な方策を検討し、「真鶴町まちづくり条例」を1993年に制定しました。この条例の中核をなすのが「美の基準」です。
「美の基準」の構成
「美の基準」は、以下の8つの原則から構成されています。
1.場所:建築はその場所を尊重し、風景を支配しないようにする。
2.格づけ:建築は地域の記憶を再現し、町の特徴を表現するものである。
3.尺度:すべての物の基準は人間であり、建築は人間の大きさと調和した比率を持つべきである。
4.調和:建築は自然環境や町全体と調和しなければならない。
5.材料:建築は地域の材料を活かして作られるべきである。
6.装飾と芸術:建築には装飾が必要であり、地域独自の装飾や芸術を取り入れる。
7.コミュニティ:建築は人々のコミュニティを守り育てるためにあり、住民は建築に参加する権利と義務を有する。
8.眺め:建築は人々の眺めの中にあり、美しい景観を育てるために努力する。
69のキーワード
「美の基準」を作成するにあたり、五十嵐先生は、69のキーワードを洗い出したそうです。これらのキーワードを整理し、抽象化したのが、「美の基準」8つの原則です。「美の基準」には、8つの原則と共に69のキーワードが示されており、原則を具体化する際のガイドの役割を果たしています。例えば、「静かな背戸」というキーワードは、建物によって騒音から守られた静かな小道を作り出すことが推奨しています。69のキーワードは、建築家ではない私のような人間が、8つの原則を理解し、「美の基準」を実践する際の助けになります。住民にとっても、ありがたい情報源だと思います。
「美の基準」の運用と成果
「美の基準」は、単なる規制ではなく、町民、訪問者、開発業者など、真鶴に関わるすべての人々が共有すべき価値観として位置づけられています。建築や開発を行う際には、事業者が町や住民と対話を重ね、合意に至るまでの手続きを定めています。また、「美の基準」は町のブランド価値を高め、移住者の増加や観光振興にも寄与しています。最近では、真鶴町の風景や文化に魅了された若者たちが移住し、SNSなどを通じて情報を発信することで、町の魅力が広く知られるようになりました。
オレンジフローラルファーム
スタディツアーのスタートは、真鶴に東京から20年前に移住し、レモンやみかん等を栽培する佐宗さんご夫妻の経営するオレンジフローラルファームでした。佐宗さんご夫婦は、スローフード発祥の地、イタリアの自然と食の考え方に賛同し、2002年からイタリアスローフード協会の国際会員になり、オーガニックにこだわった皮まで食べられる安心な自然農法に取り組んでいます。海の近くに移住することを決めた佐宗さんご夫妻が、日本中の地域を訪れ、移住に選んだのが真鶴町です。その決め手は、真鶴町には、他の地域にはない「美の基準」が存在したからだそうです。「美の基準」があることで、真鶴町の風景を守り続けることができると考えられたようです。
真鶴半島の先端にあるオレンジフローラルファームには、相模湾を望むウッドデッキテラスがあり、まるで、イタリアに訪れたような風景です。デッキには、赤いチェックのテーブルクロスのかけられたテーブル。テーブルの上には、籠に入った緑の葉の付いた黄色い大きなレモンが飾られています。海とレモン畑、背景にある自然に溶け込むモダンな建築、佐宗さんご夫妻とスタッフの皆様の温かいお出迎えすべてが映画の中のシーンのようです。私たち一同は、農園でとれた美味しいみかんをいただき、新鮮なオルガニックレモンを使った温かい飲み物やレモンケーキをいただきながら、自己紹介を行い、続いて、五十嵐先生から、「美の基準」についての講義を受けました。なんとも贅沢な時間です。講義のあとは、レモン畑も見学し、レモン狩りを少しだけ体験させていただきました。現在は、現在は、60本のレモンが植えられているそうですが、自然農法でレモンを育てるのは簡単ではなく、歯ブラシで枝を一本ずつ掃除することで害虫からレモンの木を守っているそうです。
高度経済成長の中で
私自身は、このツアーに参加するまで、「美の基準」のことを全く知らず、改めて、日本中が、開発・発展・成長することだけを考えていた高度経済成長の時代に、町の風景を維持するために、経済性を優先する開発を行わない選択をした真鶴町を心より尊敬しました。そのために大きな役割を果たしたのが「美の基準」です。
五十嵐先生は、当時を振り返り、「美の基準」はデベロッパーとの対話のために必須だったと言います。町の美しさを維持したいという伝え方では、「何」を維持するのかが曖昧になりデベロッパーとの交渉の席につくことができません。デベロッパーとの交渉には、美を説明する言語が必要であり、そのために、「美の基準」が重要な役割を果たしました。真鶴の美しさを維持したいという情熱と、デベロッパーの立場に立つ共感力が、「美の基準」を生み出したのだと理解しました。
パターン・ランゲージ
「美の基準」が生まれた背景には、クリストファー・アレグザンダーが生み出したパターン・ランゲージがあります。パターン・ランゲージは、1970年代に建築家クリストファー・アレグザンダーが住民参加のまちづくりのために提唱した知識記述の方法です。アレグザンダーは、町や建物に繰り返し現れる関係性を「パターン」と呼び、それを「ランゲージ」(言語)として共有する方法を考案しました。彼が目指したのは、誰もがデザインのプロセスに参加できる方法でした。町や建物をつくるのは建築家ですが、実際に住み、アレンジしながら育てていくのは住民だからです。
(クリエイティブ・シフトHPより引用)
今後の展望
2023年には、「美の基準」とまちづくり条例施行30周年を迎えました。真鶴町の「美の基準」は、単なる景観保護の枠を超え、地域の文化やコミュニティを大切にしながら、未来へと続く持続可能な町づくりの礎となっています。これからも多くの人々に支持され、真鶴町の魅力がさらに高まることを期待しています。