教育改革にも対話
2025年3月10日文部科学教育通信掲載
学校教育でも、主体的・対話的で深い学びが広まりつつあります。先生と児童・生徒は相似形ともいわれており、先生たちも、主体的・対話的で深い学びを実践することが期待されています。さらに、この輪を拡張すれば、教育委員会と校長先生、校長先生と先生の関係においても、主体的・対話的で深い学びを実践することが期待されていると言えます。
主体的・対話的で深い学び
主体的・対話的で深い学びを実践するために、3つのことを抑える必要があると考えます。
一つ目は、対話とは何かということです。対話は、会話とは異なり、意見のみではなく、その背景を聴き合うことに価値があります。このため、対話の席では、自分の考えについても「なぜそう思うのか」と自分に問いかける内省力が必要になります。同時に、他者の意見に対しても、「なぜそう思うのか」と相手の意見の背景にある経験や感情、判断の尺度となる価値観を聴き取り共感する力が求められます。内省と共感の両方が存在する前提として、評価や判断を行わず、決めつけず相手の意見を聴くことも期待されます。
このような対話を行うことで、多面的多角的に物事を捉える力、思考する力が磨かれ、同時に、自分とはどのような人間なのかについても気づきを得ることができるようになります。
深い学びを手に入れることができるのはこのためです。
AI時代にも対話
前例のない時代、テクノロジーの革新が進む時代において、人間を教育することがとても難しくなっています。特に、教育の目的を偏差値を伸ばすことと捉えてしまうと、AIを超えることができない人間の敗北を実感することになり、人間の尊厳も失われそうです。しかし、人間の感情や意思、夢や魂の叫びにつながる一人ひとりの存在目的を育むことに目を向ければ、寿命もあり、睡眠も必要で、心の動きによって機能が変動する人間を、AIと差別化し、そこに可能性を見出せるのではないでしょうか。そのために、主体的・対話的で深い学びが不可欠です。
対話という学び
「人間は、対話を通してしか学べない」とオランダの小学校の校長先生の言葉を最近、よく思い出します。10年前に、この言葉を聴いた際には、「なぜ対話なのだろうか」と疑問に思ったのですが、対話の価値を実感する今、この言葉の意味がよくわかりました。
「自分はこう思う」と、私たちは9割以上の日常の意思決定を無意識に行っています。この意思決定は無意識ではありますが、過去の経験を通して蓄積された自分の中にある情報を頼りに行われています。私たちは、様々なことに対するものの見方を持っていて、その情報を頼りに、無意識にも判断を行っています。このような状態なので、私たちは、判断の前提となるものの見方を言語化する習慣を持たず、自分にとって、それは当たり前のことなのです。この状態で生活を続けると、自分の中にある前提を、自分自身も言語化できず、メタ認知することができません。その結果、自分が正しいと思うしかなく、自分の思考を吟味することも、多面的多角的に考えることもできなくなります。これは、学習不全の状態といってもよいのではないでしょうか。
ヒエラルキーの傾向が強い組織に属する位の高い人にもこの傾向がみられることがあります。周囲の人々が、常に「イエス」と答えるからです。誰も、疑問を提示することや、反論することがないため、自分の考えが常に正しいものとなり、その結果、批判的に考える力が低下していきます。年功序列の社会に生きる私たち誰もが、この状態に陥らないように自己点検を行うことはとても大事だと感じます。
教育改革にも対話
今、教育は大きく変わろうとしています。例えば、一斉授業ではなく、個別最適な学びが大事であると言われるようになりました。また、生徒の主体性を育むことが期待されています。探究学習では、一斉授業のように、単線の学びではなく、先生は、非線形な学びを指導することが期待されています。色々な事柄が、真逆とも言ってよいほど大きな転換を求められています。
対話では、自分の考えの前提を俯瞰することができます。過去の経験を通して形成されたものの見方が考えの前提にあります。大きな変化を受け入れる際には、この前提を上書きすることが必要になります。しかし、多くの場合、私たちは、この前提に無自覚なため、その存在すら認識できていないことが多いです。対話を通して、「なぜ自分はそう考えるのか」を自問自答することで初めて、自分がどのような経験を通して、何が大事だと考えているのかをメタ認知することが可能になります。また、対話が習慣化すると、自分ひとりで考えているときも、「なぜそう思うのだろうか」と自分の考えについて深く考える習慣が身に付きます。
新しい世界を自分のものにするために
OECDが提唱する学びの羅針盤2030では、生徒エージェンシーという言葉が登場し、「生徒は、よりよい未来を創造する主体である」という認識を持つことが奨励されています。また、先生も、共同エージェンシーとなり、子どもたちの学びを支援することが期待されています。
この転換は、強い統率力で、子どもたちの指導や学級経営に取り組んできた私にとって受け入れにくいものです。しかし、多くの先生たちが、これからは、生徒の主体性を育むために、生徒が自ら考え行動する機会を多く与えることにチャレンジする必要があります。
人は大きな転換に直面すると、不安や悩みが心に現れます。統率力を手放して、生徒は本当に主体的に学べるのだろうか。子どもたちが安心して学ぶ環境が維持できるだろうか。生徒の学びの機会が減ってしまうことにならないだろうか。このように不安や懸念点が頭に浮かびます。私たちは、過去の経験を頼りに、未来の行動を選択する特徴をもっているため、未知の領域に足を踏み入れる際には、不安や懸念が頭に浮かぶのはとても自然なことです。
対話を通して、この悩みや不安をメタ認知することで、不安や悩みを客観的に捉えることができるようになります。その結果、ネガティブな感情に縛られることなく、新しい世界に足を踏み入れることが可能になります。
新しい世界に足を踏み入れるためには、ビジョンも必要です。このため、想像力も大事な力になります。自分の知らない新しい世界にはどんな良いことがあるのか。子どもたちはどんな姿になっていて、自分はどのような貢献をしているのか。具体的にイメージすることができると、前向きな気持ちで主体的にチャレンジすることが可能になります。
「ねばならないからやる」ではなく、「よいことだからやる」と前向きな気持ちで新しい世界を自分のものにするためには、対話とリフレクションが欠かせません。
教育における「ニューノーマル=新しい常識」を実現するために、主体的・対話的で深い学びは、先生にとっても不可欠な習慣ではないかと思います。