人生の準備は万全か
2024.02.12文部科学教育通信掲載
経済協力開発機構(OECD)が、「学びの羅針盤2030」を作成し、世界共通の教育改革を推し進める背景には、時代の大きな変化があります。
地質学の世界でも、産業革命以降に、人類の活動が地球の環境に及ぼした影響は大きく、「完人世」から「人新世」の時代への移行に関する議論が本格化しています。地球温暖化は、我々の生活においても身近なものになっており、おそらく、この議論に違和感を覚える人は少ないと思います。
2000年に発表されたOECDの「生徒の知識と技術の測定(PISA)」の報告書の序文に、Prepared for Life (人生の準備は万全か)というタイトルで次のように書かれていました。
「若い成人が未来の挑戦に対処すべく、はたして十分に準備されているだろうか。彼らは分析し、推論し、自分の考えを意思疎通できるであろうか。彼らは生涯を通じての学習を継続できる能力を身につけているだろうか。父母、生徒、広く国民、そして教育のシステムを運用する人々は、こうした疑問に対して解答を知っておく必要がある」
人生の準備として教育を見直す必要性が生まれた時代背景として、変化・複雑・相互依存という3つの言葉が用いられています。現在では書籍にもなっている「地球の限界」レポートを発表したことで有名なローマクラブは、この3つの言葉を、1970年代から使用していまます。1970年代から、すでに、今日の状態を予測し、その対策の必要性を訴えていた人々が存在していたことは、大変興味深いです。
教育と技術のレース
OECDは、そのレポートの中で、教育と技術のレースについても言及しています。
これまでも、テクノロジーは人間の能力を超える数多くの特徴を持っていましたが、これまでは、テクノロジーと人間の間に境界線がある中で、人間はテクノロジーを協働していたように思います。しかし、あらゆる領域で膨大な専門知識を有し、人間のように自然に対話ができるChat GPTに触れ、テクノロジー革新の可能性を多くの人々が実感しています。一方で、職業の観点からは、テクノロジーが人間の脅威になりうることも明らかです。
産業革命当時も、人間はテクノロジー革新に合わせて、新しい職業に付くための訓練を行いました。現在起きているエクノロジー革新の波の中では、リスキリングという言葉で、あらゆる立場の人々が、学び直しにチャレンジしていくことが期待されるようになっています。
OECDが述べている通り、教育がテクノロジー革新に追いつかなければ、教育は、人々を幸せになるために欠かせない人生の準備を万全にするという機能を果たせないことになります。しかし、指数関数的に成長するテクノロジー革新とのレースに、従来の教育が勝利することは非現実的な野心であり、だからこそ、自律的に学ぶ学習者を育てることに、その目的をシフトする道を選ぶという結論に至ったのだと思います。また、常にアップデートするテクノロジーを活用し、新しい価値創造にテクノロジーを活かすマインドやスキルを習得することは、既存のテクノロジーの世界でも可能ですから、そこは教育が引き受けられる領域であるという判断から、STEAM教育、探求教育などが盛んになりました。
BANI
大人の世界に目を向けると、VUCA(ブーカ)やBANI(バニ)という時代を表す言葉があります。
VUCA
Volatility (変動性)
Uncertaintly(不確実性)
Complexity(複雑性)
Ambiguity(曖昧性)
VUCAは、1990年代に、アメリカの軍隊が、戦略的な状況を説明するために使用した軍事用語です。冷戦終焉後、予測困難な変化や不確実性がます中で、意思決定や戦略立案のやり方を見直すために活用されました。その後、2010年代からは、経営学の世界でも用いられるようになり、企業の意思決定や戦略立案、人材・組織開発にも活用されています。
BANIは、カリフォルニア大学教授で、未来研究所のメンバーであるMamais Caiso氏が提唱している言葉です。
Britlle(脆弱性)
コロナ完成拡大を始めとする様々な脆弱性により、ビジネス環境が常に脅かされていること
Anxious(不安)
脆弱性によるリスクが常に存在することへの不安
Non-Liner(非線形性※)
些細な決断により利益が持たされることがある一方で、壊滅的な状況を招くこともあること
様々なことが必ずしも役に立つとは限らず、多大な努力が無駄になってしまう可能性があること
※非線形とは物体に関わる力(応力)と、力を加えられた物体に生じる変形(ひずみ)が比例関係にない(線形でない)状態を指す用語
Incomprehensible(不可解さ)
非線形性が見られる状態や結果は、既存のロジックできず、調査の意味もないと感じられてしまうこと
https://dd-posts.tds-g.biz/bani_vuca/ を参考に作成
BANIを生き抜く力
学習機敏性
新しい環境や経験から素早く学び、それらを未知の問題に応用できる能力は、BINIを生き抜く重要な力になります。「学びの羅針盤2030」 では、AARモデル(Anticipation 見通し、Action行動、Reflectionリフレクション)を核となる力と定めています。AARモデルを活用することで、試しながら答えを出していく力がないと、答えのない中で、身動きができなくなってしまいます。
探究学習が始まり、正解のない問いと向き合う学習実践が広がる中で、AARモデルを活用し、実践する習慣を子どもたちが身に付けることを期待したいです。
マインドフルネス
マインドフルネスとは、「意図的に、今この瞬間に、価値判断することなく注意を向けること」です。
BANI時代に生きる私達が、不安に押しつぶされるのではなく、静寂な心で日々を過ごすために、意識的に自分のマインドを扱う力を高める必要があります。自分の感情の声を聴くこと、自分の感情を言葉にすること、他者の感情に共感することを通して、人間同士が、お互いの心の状態を理解したり、必要な時に支援をしたりする力を持つことも期待されます。
また、瞑想のような手法を活用し、自分の心を整える習慣を持つことも役立ちます。
不安は、健康にネガティブな影響を及ぼすだけでなく、判断力の低下にも繋がります。その結果、物事が良くない方向に進んでしまい、更に、不安が増幅する可能性も高まります。どのような環境においても、マインドフルな状態で、課題に向き合うことができることで、BANIな環境でも最良の意思決定を行うことが可能になります。
知識の重要性
最近では、非認知能力の開発が重要であるという議論が盛んです。高い学力を有していても、BANI時代に生きる大人として、直面する課題に対処することができないからです。既知の問題に対処する力を高めても、未知の問題に対処する力は必ずしも高まらないからです。一方、幅広い領域で基礎となる知識を持つことは、これまで以上に重要な力であることも事実です。ChatGPTに質問をすれば、あらゆることに答えてくれますが、その内容を理解できなければ、膨大な知識を活かすことができません。また、困った状況において、答えを見つけるための「問い」を立てることができなければ、必要な知識にたどり着くことができません。また、対処しなければならない問題が何かが想定できない今日において、知識の幅は、人生の武器になるはずです。
学びの羅針盤は、BANI時代を幸せに生きる準備を万全に行う教育のための指針です。そのことが、子どもたちに届くことを願い、教育改革に寄与して参りたいと思います。