skip to Main Content

教育の芯

2021.07.26文部科学教育通信掲載

未来教育会議で、多様なステイホルダーと教育について対話を重ねた結果 明らかになったことの一つは、教育と経済・社会が双子であるという事実です。

社会の失われた半世紀

我が国の経済・社会では、失われた10年、20年という言葉が使われています。私が、教育改革を強く願うようになった背景には、失われた半世紀を避けたいという強い思いがありました。また、私は、この「失われた○○」という言葉が大嫌いです。社会は自らが創るものであるという主体性に欠ける、他責社会を象徴する言葉であると感じられるからです。

教育の失われた半世紀

1985年に出された臨時教育審議会の第4次答申を読み、教育も、失われた半世紀に近づこうとしていることに気付かされます。1985年の答申に書いてある課題は、今日、更に悪化し、義務教育は、人間に例えると、ガンの転移が進み、延命措置が難しい状態に陥っています。一方、1985年の答申は、とても整然と、とてもまっすぐに教育課題を直視しており、その点は、昨今の答申よりも、ずっと、心がやすらぎます。

(教育改革に関する第4次答申「はじめに」より引用)

来るべき時代は、人類文明の在り方と人間の生き方を問い直し、多様な文化の一層の開花と人間生の回復を強く求めるであろう。こうした時代の要請にこたえていく上で教育の社会的責任と使命は重い。このことを十分に自覚し、教育改革に携わる者は、日本の将来と人類社会の明日のために教育界における相互信頼を回復し、教育の世界にみずみずしい活力と創造性を生み出さなければならない。

教育改革の成否は、政府の積極的な対応はもとより、国会の理解や地方公共団体の協力、教育関係者をはじめ、すべての国民の熱意に待つところが極めて大きく、改革の実現に向けて、国民各位の深い理解と協力を切望するものである。

 

批判・他責の責任

未来教育会議の活動を行う以前は、我が国の教育は、文科省が形創るものであるという認識でいました。このため、「教育課題が解決しないのは、文科省に問題があるからだ」と単純に考えていました。ところが、多様なステイクホルダーで対話を繰り返し、教育システムについての理解が深まると、この物の見方は、間違いであることが分かりました。「我が国の教育は、社会、国民、保護者、メディア等の「批判」に基づき形創られている」ています。

社会の批判は、無責任です。いじめや学級崩壊、不登校等の教育課題の解決には時間を要します。しかし、メディアは、それぞれのテーマを、一過性の課題として扱い、批判を繰り返します。このため、教育界は、本質的な課題に向き合うのではなく、事象としての課題に向き合うことになります。又、批判は、教育現場に対する共感力に欠けていて、教育が悪いのは、文科省、教育委員会、学校、先生のせいだと他責を前提にしているので、質が悪いです。

今日では、「学校がブラックで、教員の働き方改革必要だ」が批判の矛先です。もちろん、先生の多忙化は問題です。しかし、この話を単純に、業務削減で片付けようとしても、決して、先生の多忙化の問題は解決しません。

 

滝壺で溺れる先生

OECDが発表した「未来を創る羅針盤2030」では、トランスフォーマティブ・コンピタンシーの一つにシステム思考を紹介しています。未来教育会議も、この思考法で、教育に関する要素と要素の繋がりを眺め、教育に何が起きているのかを理解しようとしました。その結果、全ての批判が、教育現場に押し寄せていて、滝壺では先生が溺れているという構造が見えてきました。子どもたちは、滝の外で、先生たちの様子を眺めています。この絵を書いた2009年に、すでに、「先生は、忙しくて授業準備ができない」と悲鳴をあげていました。教育批判が増すと、学校は、100を超える報告書に対応しなければなりません。子どもと保護者の多様化も、先生が多忙化する要因です。

 

学校は、子どもたちが学ぶ場所

大空小学校の木村泰子初代校長は、「学校は、先生が教える場所ではなく、子どもたちが学ぶ場所である」とおっしゃいますが、滝壺の様子を見れば、学校は、子どもたちが学ぶ場所ではないことは明らかです。2009年に描いた蛸壺で溺れる先生たちの様子を見ながら、早晩、学校は、先生が教える(働く)場所でもなくなるのだろうということは、容易に想像できました。

 

学級に責任を持つ先生たち

2009年に、先生が滝壺で溺れている絵を多くの教育関係者に紹介した所、誰もが「そうだね。間違っていないよ」と言いました。そのことにも、また、驚きました。先生という職業は、「教える」仕事以外にも、たくさんの仕事があり、授業準備ができないのは仕方がないという受け止め方が主流でした。また、先生には、学級に責任を持つという使命感があり、その年の子どもたちの様子によって、仕事の難易度も相当変わってしまうことも分かりました。先生は、学校ではなく、学級に帰属しているというのが、一般的な学校組織の常識のようです。

大空小学校の木村泰子校長や麹町中学校の工藤勇一校長は、学級担任制を廃止し、学校全体、学年全体で子どもたちを育てる学校を実現していますが、この考え方は、学校の「当たり前」ではないようです。

 

義務教育の崩壊

今日の教育課題は、1985年よりも更に複雑化しています。GIGAスクール、英語教育、プログラミング教育、主体的で対話的な深い学び、概念教育、アクションラーニング、共同エージェンシー等々 教育への期待が膨張する今日、残念ながら、過去からの課題を積み残してきた現在の学校と教室は、時代が求める教育を提供する場とは言えない状況です。

その結果、受験勉強同様に、教育産業が、新しい教育ニーズに対応していくことは容易に想像できます。その結果、義務教育の存在意義が問われ、格差社会が更に進みます。子どもたちの社会である学校が機能不全に陥ると、子どもたちは、大人や社会を信頼することなく育ち、政府を信頼しない国民を増やすことになります。時代は、共生社会を願っているのに、子どもたちは、個人主義、弱肉強食といった旧態依然のマインドセットを身に着けた社会人になっていくでしょう。それは、とても悲しいことです。

 

義務教育の存在意義

義務教育を崩壊させないために、今、大切なことは、義務教育の存在意義に立ち返り、「すべての子どもの学習権を保障する学校」を目指すことです。それは、同時に、今の学校と教室が、すべての子どもの学習権を保障していないことを認めることです。

落ちこぼれ、吹きこぼれという言葉を平気で使うのではなく、全ての子どもたちが、学習することができる教室を実現することができなければ、学校の未来はありません。なぜなら、それが、教育の芯となる部分だからです。そして、この芯は、子どもたちの力なしに創れないということを、大空小学校は私に教えてくれました。

教育が芯を取り戻すためには、「学校は、先生が教える所ではなく、子どもたちが学ぶ所である」と言える校長と先生の存在も不可欠です。子どもたちも、先生も、校長も、保護者も、みんなの学校を創るメンバーの一員として、学校を創る責任を持つ。地域の人たちも、責任を持つ。そんなマインドセットを持つことができれば、教育が、他責・批判の被害に合うこともなくなります。教育の芯に立ち返れることを、切に願います。

Back To Top