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社会起業家ハシナの物語

2019年12月23日 文部科学教育通信掲載

日本での活動を支援している社会起業家のネットワーク アショカジャパン は、毎年、世界的に活躍する社会起業家を招聘し、日本に紹介する活動を行っています。今年も12月に、インドで社会起業家として活躍するハシナ ・カールビー氏が招かれ、セミナーやワークショップが開催されました。

 

ハシナの偉業

ハシナは、人身取引の犠牲者を救うために、インド、バングラデシュ、ミャンマー、ネパール4ヶ国の政府で活動し、政府と警察、および各国NGO165団体、弁護士25人とのパートナシップ『インパルスモデル Impulse Model」を構築しています。現在、その活動をタイにも拡大する準備を進めています。22年間に4ヶ国の行方不明者72,442人を救出し、マザーテレサ賞をはじめとする人権分野の17の賞を受賞しています。

人身取引は、私たちにとって馴染みがない言葉ですが、世界では、4,030万人が人身取引の犠牲となっていて、その半数がアジア地域に集中しているそうです。(出典:ILO国際労働機関)人身取引の市場規模は、数十兆円規模と推測されています。そのうち強制労働により生まれる利益は、約3兆4100億円と推定されています。(出典:国連人身売買根絶フォーラム)

高校時代の奉仕活動

1971年、インドのメガラヤ州都シロンで生まれ、カトリック修道院附属学校に通っていたハシナ は、週末に「恵まれない人々」への社会奉仕を行うリーダー養成プログラムに参画します。老人ホームや病院、ホームレスシェルターなどへの訪問や、支援のための資金集めに熱心に取り組む中で、彼女は、自身がとても恵まれた環境に生まれ育ったことに、改めて気づいたそうです。また、活動する中で、施しを与えるという支援に疑問を抱くようになり、貧しい女性が経済的に自立する手段として、工芸品製作スキルを教える活動に力を注ぐようになりました。

学歴よりも信頼関係を

高校3年生となり、大学進学の進路について考える時期がやってきました。ハシナは、両親やロンドンに住んでいた祖母の勧めに従い、英国北部にある名門大学への進学を決めました。外国へ行くことに反対だった母親も説得し、高校の先生にも推薦書を書いてもらい、無事、留学の準備が整いました。

しかし、友達や家族みんなに祝福され、英国に向かう飛行場で、ハシナは大きな決断をします。英国大学への入学を取りやめ、高校時代に取り組んでいた女性の経済的自立を支援する活動を続けるという決断です。それは、英国に飛び立つ飛行機が出発する数時間前の決断でした。

「私が、5年間インドを離れたら、私を頼りにしている女性たちはどうなるのか。名門大学の学位は、どれだけ私の活動の助けになるのか」

彼女の心の声が尋ねたそうです。そして、彼女は、この心の声に従い、英国大学への進学を断念します。

決断をした直後、ハシナはお兄さんに飛行場から電話をかけます。その時、お兄さんは、「決断をするのであれば、その責任を引き受けることになる。もう、後戻りはできないよ」とハシナに伝えたそうです。ハシナの意思を尊重したお兄さんのアドバイスもとてもパワフルです。

ハシナが英国の大学に留学することを喜んでいた祖母や両親が彼女の決断を受け入れてくれるのには時間がかかりましが、彼女は、自分の選択を後悔しなかったと言います。この決断が、困難に直面しても、現在の活動を推進する原動力になっているそうです。10代で、人生を変える大きな決断を行なったハシナの勇気と叡智を讃えたいと思います。

 

定時制大学と活動の両立

地元に戻ったハシナは、仕事をしている人たちのための定時制の午前部の定時制大学に入学し、活動を始めます。毎朝6にスタートし11時に終了する講義に出席し、午後は、自ら立ち上げた団体の活動に従事します。

ハシナは活動を見直して、慢性的な貧困状態を変えるためには、工芸品を輸出することを思いつきます。そこで、貿易商のお兄さんに相談したところ、デザインの見直しと量産体制を整えないと輸出は難しいと言われました。それでも、彼女は諦めず、お兄さんから輸出業者の連絡先をもらい、「貧しい村を救うために安定的な女性の経済力を作り出さなくてはならない、そのために工芸品の市場を探している」という趣旨の手紙を100名に送り、輸出の道を模索しました。それから半年ほど経って、一人のフランス人業者から「協力しましょう!」という返事が届き、続けて、竹から製品を作る指導をしていた日本人からも協力を申し出があったそうです。こうして、工芸品を輸出する市場が出来上がり、約200所帯の生活が成り立つようになりました。

 

環境保護政策が人権問題を生み出す

1996年 に環境保護のために木を伐採することを禁じる法令が成立し、竹と藤(とう)が伐採できなくなり、女性たちは、工芸品づくりを断念しなければならなくなりました。その後、法律改正を求める訴訟を起こし、竹と藤は、「農産物」と認められましたが、法律が改正されるまでの期間、村の人々は、工芸品の販売以外の手段で、生計を立てることを考えなければなりません。そこで、子供達を、他の州に、「家事手伝い」として送り出すことになります。ところが、その中の何人かの子どもたちが行方不明となっていることが判明します。

ハシナは、環境保護を理由に、竹や藤の伐採を禁じた法律が、人権問題を生み出しているという事実を、世の中に伝えるために、この事実を記録した報告書を作成し、2001年に発表しました。この時点で、ハシナは、行方不明となった子どもたちが人身売買の被害に遭っているという認識はありませんでした。しかし、作成した報告書が、人権分野で活動する人々の目に留まり、2001年にカルカッタで開催された「未成年の人身売買」をテーマとするインド全国合同会議に招かれます。

カルカッタ会議

カルカッタ会議に参加し、初めて、ハシナは、この問題に取り組んでいる100を超えるMGOがインドにいることを知ります。それまで手探りで進めていた取り組みには、既に大勢の専門家がいることを知り、力を合わせれば大きな解決策が生み出せることを直感したのは、この時だそうです。この会議で、初めて、「行方不明の子ども」が「人身売買」の標的であるということを知ったそうです。

会議の後、ハシナが最初に取り組んだのは、Eメール作戦です。メガラヤ州の「行方不明の子ども」の情報を、会議の参加者全員に共有してもらうためにEメールを送りました。まだ、Eメールがそれほど広まっていない時代でしたから、当時は、とても斬新なアイディアと評価されたようです。そして、このEメール作成の成果として、メガラヤ州出身の少女2人と隣接州の少女1人がムンバイの売春宿で見つかり救出されました。この Eメール作戦の成功体験を通して、ハシナと会議に出席した100を超えるNGOの人々は、「情報共有が解決に繋がる」ことを確信します。

高校の奉仕活動を通して出会った貧しい女性たちの経済的自立を支援していたハシナは、こうして人権問題を解決する社会起業家としての道を歩み始めます。

後半では、ハシナが、人身取引の問題を解決のためにどのようなモデルを生み出し、その活動を発展させていったのかをご紹介します。

 

 

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