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教育改革の壁

2019.1.28 文部科学教育通信 掲載

2020年の学習指導要領の改訂に向けて、教育改革の波が、全国に広がる中、今起きていることを心から喜べない私がいます。この10年間、教員養成、教育NPO活動、未来教育会議、オランダのシチズンシップ教育等 様々な活動を通して教育改革の実現を願ってきました。しかし、今、起きていることを、10年前の課題認識に照らすと、真の課題解決には至っていないのではないかと思います。私たちは、もう少し上手に、教育改革に臨めないものでしょうか。

 

ゆとり教育から奴隷教育へ

2012年に描いた「ゆとり教育から奴隷教育」への絵は、小学校に英語とプログラミング教育が加わり、益々悪化することが容易に予測されます。子どもたちにとって、もっとも残念な教育は、人から、その人が大事にしていないことを教わる授業です。多くの小学校の先生は、プログラミングを教えたくて学校の先生になったのではないという思いを持っています。そんな中、教員の手当てもないままに、既存の教員の善意に頼る改革が、さらに状況を悪化させます。

教員養成と連動しない教育改革

教育改革の結果は、学習指導要領の改訂ではなく、子どもたちがどのように成長、発達していくのかで評価されるものです。改定した学習指導要領に基づき行われる教育が子どもたちの血肉になる場所、それが学校です。従って、教育改革の鍵は、教員が握ることになります。その教員養成に、どれだけのエネルギーが今注がれているのでしょうか。答えはノーです。

先生にも安心安全な場が必要

ビジネスの世界では、安心安全という言葉が流行です。イノベーションの時代になり、多様な人たちが、オープンに意見を出したり、失敗を恐れずチャレンジするためには、職場で、誰もが安心安全を感じることが大事だと言われています。前例を踏襲しない、答えのない時代に、新たな世界を作り上げるためには、心理的安心が不可欠だというのです。この話は、丸々、学校の先生に当てはまると感じます。一斉授業からアクティブラーニングへのシフト、プログラミングや英語などの新たな教育への挑戦など、教員はこれまでにない教育にチャレンジする必要があります。学校を劇場に例えるなら、十分な養成の機会を得ないまま、ぶっつけ本番で劇を演じなければならないというのが、学校の様子なのではないでしょうか。その劇場には、様々な親がやってきて、先生のご苦労を察し見守る温かさよりも、批判をぶつけることの方が多く、新しいことに挑戦する先生たちは、心地のよい状態にはいられないのではないかと思います。

 教員養成改革

教員免許更新制度の導入や、教職大学院の設立等、教員養成に力を入れた時期もありました。12年前のことです。当時は、研究者がフィンランドに出向き、教員のコンピテンシーの研究などが行われていました。しかし、現在、この流れは完全に断ち切れ、巷では、教職大学院がなくなるという噂が立つほどです。

私自身も教員養成に関与していたので、教員という職業の特異性には、悩みました。大学院の修了生が、先生になると、初日から、30年のベテランと同じことを期待される職場は、学校以外にはないのではないかと思います。また、子どもたちの多様化が進み、配属される学校により、先生に求められる力が大きく違うのです。大学院で学ぶことはすばらしいことですが、目の前の子どもたちの状況に合わせて、自ら職場で教育をつくり上げるために必要なすべてのことを大学院で提供することができません。この状況の中で、先生となった修了生が、様々なチャレンジに直面しながらも、真摯に職務に取り組む姿には、涙がでることもありました。

オランダなどでは、教員志望の大学生は、学生時代から、かなり長い時間を学校で過ごし、子どもたちの様子を知ることができ、教員になった時には、安心して子どもたちの前に立てるといいます。子どもたちの未来を託している先生たちに対して、私たちは、もっと愛情を注ぎ、育む姿勢を持たなければ、教育改革は成功しません。

21世紀スキルを画一的に学ぶ学校

未来教育会議では、2014年に、教育の未来シナリオを描きました。文科省、教育委員会、校長、先生、保護者、大学生、高校生等 様々な関係者の意見を伺いながら、教育の未来がどうなるのかを描いたのが教育の未来シナリオです。その結果、3つの未来の姿が見えてきました。①21世紀スキルを画一的に学ぶ学校、②地域とつながり学ぶ学校、③社会と一緒に学ぶ学校のシナリオは、どれも、現在の様子を表しています。地方創生の中で、子育てを大切にする地方では、②番目の地域とつながり学ぶ学校がブームです。③番目の社会と一緒に学ぶ学校も、少しづつではありますが、始まっています。②も③も、起きて欲しい未来の姿なので、この2つに関しては、とても喜ばしく感じています。しかし、問題は、①番目の21世紀スキルを画一的に学ぶ学校です。これは、大きな矛盾を抱えた学校の姿を現しており、子どもたちがダブルメッセージを受け取る学校の姿です。

そもそも、21世紀の教育は、多様性を前提としています。一人ひとりが個性や能力を伸ばし、自分らしく世の中に貢献していく力を育む教育へのシフトが求められます。工業化社会のように、誰もが一定レベルの能力を獲得し、工業製品のように画一的な品質を担保するために存在した学校教育を、テクノロジー革新が進む社会の中で、創造力を発揮できる人材

育成を行う学校教育にシフトしていくことが、個人にとっても社会にとっても幸福をもたらすというのが前提となる理念です。しかし、長く、画一的な教育に従事してきた学校が、この大きな理念の転換を行うことは容易ではありません。生徒の主体性を育むためには、生徒の判断力に委ねる必要がありますが、生徒側も、決められたレールに乗っかる教育と、教師との主従関係に慣れており、「指示をだしてください」と不満を表出します。

アクティブラーニングとは、話し合いの形式のことではなく、生徒がどれだけ頭に汗をかくか、どれだけ思考を活性化し、深く考えるかという話です。一斉事業のように、アクティブラーニングの授業を一斉に行っていても、一人ひとりの思考が活性化することは期待できません。それなら、まだ、単語のひとつでも暗記していた方がまだましということになります。

新学習指導要領は、教室における先生と生徒の役割期待を大きく変える話です。生徒が主体的に学ぶ目的を持ち、自らの意思で考えを深め、自律的に学ぶ大人に育つ訓練をする場所が、教室です。これまでのように、座っていれば、先生が学びを届けてくれるという考えを捨てなければなりません。同時に、教員も、すべてを教えることで任務を果たすという視点を捨てなければなりません。そして、先生と生徒の間で、このことについて合意形成がなされる必要があります。

理念なき学校

公立学校では、数年で校長先生も、先生も異動するのが当たり前です。こうして、日本中津々浦々、一定レベルの教育が担保されてきたという利点がある一方、学習指導要領の改訂に際して、このあり方には限界を感じています。学校の人事の仕組みも、工業化社会の教育の仕組みとしては理にかなっていると思いますが、多様性を前提とする21世紀の教育においては、矛盾した仕組みです。先生も生徒も、役割を越えて人間として存在できる学校が、21世紀の教育には必要ではないかと思います。

教育改革の壁が消滅する日を心待ちにしています。

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