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心の教育と学校

文部科学教育通信 No.310 2013-2-25に掲載されたグローバル社会の教育の役割とあり方を探る22をご紹介します。

心の教育の重要性は誰もが認識しています。いじめのない学校や、道徳心を育む学校創りを目指さない学校はありません。一方で、いじめは深刻化する一方であり、道徳心は希薄になる傾向にあることを、危惧する声は絶えません。そこで、心の教育とは何かについて、少し違う視点から捉えてみたいと思います。

 

感情による思考の支配

ハーバード教育大学院で行われている教育の未来についての勉強会で学んだ脳科学と教育の融合は、心の教育における大きなヒントになります。米国では、脳科学者と心理学者と学校の先生が協力して「子どもにとって効果的な学習とは何か?」ということを模索し続けており、ハーバード教育大学院にもMBE(Mind, Brain & Education)という新たな領域が登場しました。研究の結果明らかになった事は、感情が私達の思考や判断を支配しているという事実です。

私たちは、生活をする上で様々な決定を下しますが、その際に指針となるのが過去の経験です。自分のとった行動の結果を、その時に味わった感情から「知恵」と「愚行」に区分して知識として脳の中に蓄え、次に決定を下す際の指針にします。また、行動の結果を予測した時に起きる感情も決定を下す際の指針となります。脳の前頭前皮質に損傷を受けた患者が合理的に判断できなくなってしまうのは、思考を支配する感情という指針を失ってしまうからです。患者は過去の経験から学ぶことができないだけではなく、新しい経験から学んでいくこともできなくなり、間違った意思決定を行いがちです。このように論理的思考から感情が切り離されてしまうと、思考したり、決定したり、学習したりする能力が欠落してしまうのです。

 

いじめにおける「知恵」と「愚行」

先日、NHKで、ハーバード大学のサンデル教授と、日本の中学生がいじめについて話し合う授業を視聴しました。そこで、明らかになったことは、誰もがいじめはよくない、と考えているということでした。一方、多くの生徒は、いじめを止める行動にでないという意思表明をしていました。その背景には、いじめを止めようとすると、自分がいじめの対象になる可能性があること。先生に「チクル」ことは望ましくない行動であることが挙げられます。このことを、脳科学の発見に照らして考えると、いじめに対処することは、「愚行」であると生徒たちが感じているということです。そして、もちろんこの認識は、生徒の過去の経験、つまり、失敗体験に基づいています。

知人の高校の先生が生徒たちに、「なぜいじめに対処しないのか」と尋ねたところ、生徒たちからは、対処した結果どうなったかという失敗体験が次々と出されたそうです。いじめを先生に伝えた時の先生や学校の対応はさまざまです。全校生徒を集めてお説教をする校長先生や、いじめている子を呼び出してお説教をする先生、学級全体にいじめをやめようと話をする先生、どの先生方も、いじめを無くそうと一生懸命です。ところが、先生が介入したことにより、その後、いじめは更に悪化し、いじめを報告した生徒もいじめに巻き込まれたり、周囲から恨まれたりするというのが一般的な顛末です。良かれと思って対処しても自分も周りも報われない、というのが、子どもたちの共通認識なのです。

いじめに対処することが「愚行」という子ども達の認識は、驚いたことに日本だけのものではないようです。1990年代に、いじめや学級崩壊が問題になったオランダでも、子どもたちのいじめに先生が介入すると、かえっていじめが悪化してしまうという現象が繰り返されました。そこで、オランダでは、教育の方向転換を図り、先生が介入する代わりに、子ども達自身でいじめに対処する方法を「ピースフルスクール」プログラムを使って教えることにしました。過去に何度かご紹介していますが、「ピースフルスクール」は、オランダで最も使用されているシチズンシップ教育プログラムです。いじめやコンフリクトの解決を発端として、学校やクラスを民主的な共同体に変えていくことを狙いとしています。

「いじめが悪い」というのは誰もが知っている事実ですが、今の学校や教室では、いじめを制止する力を誰も持っていない、という認識のもとに、新たにいじめ対策を見直す必要があるのではないかと思います。

 

生きる力は学校では「愚行」?

いじめ以外にも、学校教育における「愚行」について、もう一つ気がかりな事があります。それは、「生きる力」に関連する心の習慣についてです。生徒のために良かれと思って行っている学校教育が果たして「生きる力」の育成に役立っているでしょうか。以下に挙げたリストは、学校教育において慣習とされている事柄です。生徒の立場になってこのリストをご覧下さい。

○目的とゴールなしに授業を受ける

○正解しか発言してはいけない

→主体性にどのような影響を与えるでしょうか?

○批判的ではなく素直に、(先生や大人の)話を聞く

○先生が決めたことに、生徒は従う

→クリティカルな思考にどのような影響を与えるでしょうか?

○授業(学習)の準備は、先生が行う

○問題(問い、必要な情報、正解)を用意するのは先生である

→社会に出てからの問題解決力に、どのような影響を与えるのでしょうか?

○学習の中心は、既知の事実に限定される

○正解はすでに用意されている。自分で考える必要はない

→未来を切り開く力、創造する力に、どのような影響を与えるのでしょうか?

○勉強や考えることは、一人で行った方が能率的である

○異なる意見は、場を混乱させ、効率を低下させる

→みんなで考える力に、どのような影響を与えるのでしょうか?

 

人間形成の場としての学校

日本で最高峰とされる大学で、ある大学生が私に言った言葉です。「高校を卒業するまで、私はとても優秀な生徒でした。先生の言う事をしっかりと聞き真面目に勉強しました。そして希望の大学に入りました。でも、今、私は先生や学校教育に裏切られた気がしています。大学に入ると突然、放任で、社会に出ると自己責任です。こうなるのなら、もっと前に準備をさせてほしかったです。」この話を聞きながら、オランダに教育視察に行った時の事を思い出しました。

2011年にオランダに教育視察に行き、小学生が3か月の学習を振り返り、「誇りに思うこと、その理由、苦労したこと、次はどこをもっと上手にやりたいか」について自然に語っている姿や、生徒が喧嘩の調停を行っている様子を見た時に、この年齢でもリフレクションや調停ができるという事実に衝撃を受けました。そして、私達大人が、子どもへの期待を低く持つことにより、子どもは、幼稚化するのだということを認識しました。同時に、オランダでは、小学生が自然に行っている多様性の尊重や対話による問題解決を、日本では、大人でもできていないことを認めざるを得ませんでした。

学校とは、リヒテルズ直子氏の言葉を借りていえば、*「個々の子どもが自分の能力を発見し、それを最大限に延ばして、将来、社会の中で自分の居場所を見出し、その場での活動を通じて、この社会の一層の発展に積極的に関われるようにするための人間形成の場」であるべきだと思います。

生徒が、生きる力を育み、大人になるための人間形成を行う学校において、子ども達の体験が、何を感情に刻み込んでいるのかを見極める必要があります。

いくつかの学校では、心の教育を見直す動きが始まっていますが、知識偏重型の心の教育では生徒の心に届く教育にならないのではないでしょうか。

 

*引用:「オランダの個別教育はなぜ成功したのか」(リヒテルズ直子著、平凡社、2006年)

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