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脳科学と教室

文部科学教育通信 No.306 2012-12-24に掲載されたグローバル社会の教育の役割とあり方を探る⑱をご紹介します。

前々回の記事で、脳科学の研究結果が教育に反映され始めていることをお伝えしました。今回は、Neuroscience & the classroom(脳科学と教室)のサイトから脳科学の研究結果をもう少し掘り下げてご紹介するとともに、教室での実践事例をお伝えしたいと思います。

 

●なぜ論理的思考には感情が重要か?

長年にわたって、行動を支配するのは論理であり、感情は秩序を乱す邪魔なものと考えられてきました。1980年代になってアントニオ・ダマシオ博士(南カリフォルニア大学Brain and Creativity Institute所長)が、脳の前頭前皮質腹内側部(vm-PFC)に損傷を受けた患者は自分のとった行動を忘れ、他人の感情に無関心になってしまう、ということを発見しました。これらの患者は、理論や社会的ルールを理解し、将来の計画やビジネス上の決定について知的にスピーチをすることはできでも、過去の経験から学んで自ら正しい決定を下したり、現在の行動に生かすことができなくなっていました。かつて、有能であった会社の役員が誤った意思決定を行い、会社を倒産させてしまったり、愛情深い夫が妻の気持ちにまったく関心を示さなくなった例が報告されています。

私たちは、生活をする上で様々な決定を下しますが、その際に指針となるのが過去の経験です。自分のとった行動の結果を、その時に味わった感情から「知恵」と「愚行」に区分して知識として脳の中に蓄え、次に決定を下す際の指針にします。また、行動の結果を予測した時に起きる感情も決定を下す際の指針となります。脳の前頭前皮質に損傷を受けた患者が合理的に判断できなくなってしまうのは、思考を支配する感情という指針を失ってしまうからです。患者は過去の経験から学ぶことができないだけではなく、新しい経験から学んでいくこともできなくなり、間違った意思決定を行いがちです。このように論理的思考から感情が切り離されてしまうと、思考したり、決定したり、学習したりする能力が欠落してしまうのです。

 

●正しいとわかっていてもなぜやる気にならないのか?

「なぜ、昨夜は勉強すると言っていたのにしなかったの?」
「どうして補習をすっぽかしたの?」
「どうして、土曜日にシニアセンターにボランティアに来なかったの?約束したじゃない?」
先生を悩ませる生徒の行動の一つに、生徒が約束を守らないということがあります。
後から生徒に理由を聞いても、単に「やる気にならなかったから」と答えるのみです。まるで、脳の前頭前皮質に損傷を受けた患者のように、生徒は社会的ルールや自分への期待を知りながら、約束をすっぽかして友達のもとにいそいそと出かけていきます。他人には優しく、両親は尊敬するべきで、困っている人は助けるべきで、社会的に成功するためにはどうすればいいか、ということをきちんと認識しているにもかかわらず、知識とは反対の行動をとってしまいます。これは、なぜなのでしょうか。

脳の第一の機能は生命の維持です。呼吸、心拍数、血流、ホルモン量等生命を維持する機能を統制して、体の状態を常に感知し、不具合があれば警告を発して知らせてくれます。脳は私たちの身体や心とリンクして、感情、思考、感覚、行動を意識・無意識的にコントロールしています。近年の脳神経学の研究で明らかになったのは、この原始的な生命維持装置と同じシステムが我々の思考、学習、行動の「やる気」を、意識下・無意識下で、コントロールしているという事実です。言い換えれば、どんなに頭で正しいことをしようと意識しても、直観的(本能的)にやりたいと思わなければ「やる気」のスイッチはなかなか入らないと言えます。

 

●歴史を学ぶ意義

ボストンラテン高校の現代史の教師ジュディ・フリーマンは人権や公正について学ぶ授業の中で、ナチスのホロコーストからの生存者の証言インタビュー映像を生徒に見せます。映像の中で、ホロコーストの生存者はこう語ります。
「ナチスによるユダヤ人の迫害が始まった。最も印象に残っていることは、ナチスがドイツ中のユダヤ人の学校、建物や商店などを破壊して回る音だった。あちこちでガラスの割れる音がした。ユダヤ人の年老いた小柄なおじいさんが営むたばこ店も破壊された。ナチスはおじいさんに、粉々になったガラスを一つずつ拾うように命じ、その様子を微動だにせず、じっと見ていた。友人と私は、何も言わずに様子をとりまいて見ているドイツ人の群集の前に出て、おじいさんと一緒になってガラス片を一つずつ拾い上げた。心の中で「助けて」と叫びながら。ナチスがどうしてあのようなことを命じたのかはわからない。群集の中には、沈黙することでナチスの行為に対して無言の抗議を示していた人もいたのかもしれない。でも、あの場で沈黙を保つことは害を及ぼしていた。何の役にも立っていなかった」

この映像を見た生徒の発言1:「ショックを受けた。沈黙は害だった、という発言は強力、そして本当だ」
発言2:「これは、私たちが街で困っている人を見かけても、何もしないのと同じ。自分には関係がないからとか、他にもたくさん人がいるから、と言ってそばを通り過ぎるのはただの口実。このおじいさんはとても勇敢だったと思う」
フリーマン先生:「過去と現在を何度も行ったり来たりして歴史の授業を行います。歴史を学ぶ意義は、現在の出来事と関連づけて考えることです。そうしなければ、生徒にとって、歴史は死んだ歴史、ただの昔のできごとになってしまいます。歴史の中の人物に焦点を当て、その生き様を考えることで、過去の歴史が生きた歴史として力を持つようになります。映像を利用することでこのような変容が可能です」

 

●国語の授業を面白くする

ニックは高校の国語教師としてカリキュラム作成を担当しています。以前から、感情が学習に重要な役割を果たすということを知っていましたが、知性と感情は別々の働きをすると考えていました。ある日、ニックは、「人間の興味と要求は感情に根ざしていて、感情が思考と行動を支配している。いつ、何を学習するかを選んでいるのは自分である」ということを学び、生徒の学習のモチベーションに関するヒントを得たと思いました。国語の授業を面白いものにするには、教材にもう少し幅を持たせる必要があり、そうすれば生徒が読んだり、ディスカッションしたり、文章を書くことにもっと多くの時間を費やしてもらえると考えました。とはいうものの、そのような自由を生徒に与えることによって、特に大学進学を考えている生徒に必要な学習事項を教えられなくなるのではないか、と危惧しましたが、考えた末に、ニックは読む、書く、思考するために必要なスキルを教えることに注力し、教材は生徒に自由に選ばせることにしました。

生徒自身が自分で教材を選ぶことに慣れると、ニックは生徒の共感を呼びそうな作品のリストを作りました。もう既に生徒の何人かは教室外でも読書を楽しむようになっていましたので、ニックはリストにはこだわらず、「最初に数ページ読んでみて、もしピンと来なければ次の作品を読んでみる」という本を選ぶプロセスだけを生徒にアドバイスしました。時には、読書クラブのように、交代で生徒に作品を選ばせ、選んだ生徒が中心となってディスカッションを進めさせたり、時には生徒一人ひとりに好きな本を読ませ、それぞれのテーマに基づいてエッセイを書かせ、それをクラス全体と共有したり、ディスカッションさせたりしました。こうして、生徒に授業に興味を持たせ、国語のスキルを上げるというニックの試みは成功しました。

脳科学的見地から考えると、感情を伴わない(興味の持てない)学習は、なかなか身につかないと言えます。学習者にとって親切な学校とは、学習者主体に学習を設計するか、学習者自身が自分で学習を設計できる学校であるとも言えます。

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